現場でしかわからないこと
「観客」を「消費者」と呼ぶ言説が、ここ数年で増えている。来場者数、LTV、購買属性、リピート率。数字は正確だ。しかし私が現場で感じるのは、その分類が何かを見落としているという違和感である。
USJで演出を担当していた頃、休日に客として園内を歩く習慣があった。人の動きを見るためだ。滞留 する人と、移動 する人。この二種類は、明らかに違う顔をしている。滞留している人は、急いでいない。何かを探しているのでもなく、何かに引き留められている。消費していない。没入している。
その差は、チケット代の高低でも、コンテンツの質でもない。「何をしに来たか」の違いだ。お金を使いにきた人と、時間を預けにきた人。
時間を預けるということ
観客は 時間を預けに来る。お金ではなく、生きた時間を持ってくる。
これは比喩ではない。時間は取り戻せない。お金は稼ぎ直せる。だからこそ、観客は「時間を預ける価値があるか」を無意識に問い続けている。その問いに答えられない体験は、入場後30分で消費モードに転落する。グッズを買い、写真を撮り、食事をして帰る。それ自体は悪くない。しかしそれは「観客」の体験ではない。
観客であるとは、体験の内側に入ることだ。ストーリーが自分のことに思える瞬間。照明が落ちて、心拍が上がる瞬間。それを設計できているかどうか。私が現場に立つとき、常にこの一点を問い続けている。
作品か、商品か
体験が「商品化」される瞬間を、何度も見てきた。客単価を上げるためのオプション追加。SNS映えのためのフォトスポット増設。悪意はない。むしろ善意の改善だ。しかし積み重なるほど、体験は「観客のもの」から「運営のもの」に変わっていく。
NYXが設計するとき、最初に決めることがある。「これは作品か、商品か」。作品であれば、観客は時間を預ける。商品であれば、観客は対価を払う。どちらが正しいかではない。設計者が、どちらを作ろうとしているかを自覚しているか。それだけだ。
自覚なき体験は、観客に伝わる。現場の空気は、正直だ。
観客が時間を預けたとき、
そこはもう商業施設ではない。
作品の中に、いる。
— Shoichiro Tsuno · CCO, NYX
